創世記47章1節~12節「年老いた父」

創世記 47:7-9  それから、ヨセフは父ヤコブを連れて来て、パロの前に立たせた。ヤコブはパロにあいさつした。パロはヤコブに尋ねた。「あなたの年は、幾つになりますか。」ヤコブはパロに答えた。「私のたどった年月は百三十年です。私の齢の年月はわずかで、ふしあわせで、私の先祖のたどった齢の年月には及びません。」

他人を押しのけて神の祝福を奪い取ろうとするヤコブの人生の結末は、愛する妻との死別であり、飢饉であり、無気力であり、喪失でした。奪い取る人生ではなく、奪い取られる人生であったと言えます。

創世記 42:36  父ヤコブは彼らに言った。「あなたがたはもう、私に子を失わせている。ヨセフはいなくなった。シメオンもいなくなった。そして今、ベニヤミンをも取ろうとしている。こんなことがみな、私にふりかかって来るのだ。」

年老いてよぼよぼの姿になった父ヤコブをヨセフはパロの前に連れてきます。自分の息子ヨセフがエジプトの王の隣に立っているのを見たヤコブは万感の思いだったと思います。「わたしの生涯は短く、苦しみばかりでした」と王に打ち明けるヤコブですが、誇らしい息子の姿を目にしたヤコブの心は、今までの苦労が吹き飛んで晴れやかだったのではないかと思います。

80歳を過ぎてから、息子のキリスト教に切り替える決心をして、仏壇も墓も手放した私の父の姿が重なりました。その父を神の前に連れて行くことができるのは最高の親孝行だと思います。

ヤコブは、この先17年をエジプトの最も良い地を与えられて、息子ヨセフに見守られながら過ごします。その17年間は、孫たちに囲まれながら、それまでの130年間とは違う神様との濃密な時間だったと思います。