創世記46章28節~34節”Now let me die.”

創世記 46:29,30 ヨセフは車を整え、父イスラエルを迎えるためにゴシェンへ上った。そして父に会うなり、父の首に抱きつき、その首にすがって泣き続けた。イスラエルはヨセフに言った。「もう今、私は死んでもよい。この目であなたが生きているのを見たからには。」

「もう今、私は死んでもよい」Now let me die.

ヤコブは神の約束が将来、確実に実現することを知ってついに安心したのでしょうか。

アブラハムも、約束が成就するのを地上で見ませんでしたが、はるかかなたにその実現を見ていました。

ヘブル 11:13  これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。

モーセも、ピスガの頂に立ちましたが、ヨルダンの向こう側の約束の地に行くことは許されませんでした。モーセはそこで役目を終えます。

申命記 34:4  そして主は彼に仰せられた。「わたしが、アブラハム、イサク、ヤコブに、『あなたの子孫に与えよう。』と言って誓った地はこれである。わたしはこれをあなたの目に見せたが、あなたはそこへ渡って行くことはできない。」

「行くことはできない」と言われてモーセは悔しかったでしょうか。「もう行かなくていいんだよ、あなたは走り終えたんだよ」と言ってくださる神の大きな胸に抱かれる思いだったのではないでしょうか。

死んだと思っていたヨセフとの再会は、ヤコブにとって、ピスガの頂に立つ体験でした。自分の人生を総括して、神の視点で俯瞰する、最期の瞬間。

神の計画の中で自分の役割はその一部に過ぎません。Now let me die. そのように最期に告白できる生き方をしたいと思います。