創世記33章1節~17節「加害者による和解の務め」

創世記 33:4  エサウは彼を迎えに走って来て、彼をいだき、首に抱きついて口づけし、ふたりは泣いた。

敵対していた(とヤコブは思い込んでいた)兄エサウとの美しい和解のシーンです。しかし、ヤコブはこの和解を素直に信じることができず、兄をなだめようとして何度もおじぎをして贈り物を渡そうとします。

叔父ラバンとの関係では、悪いのはラバンであり、ヤコブは被害者でした。しかし、エサウとの関係では、悪かったのはヤコブであり、ヤコブは加害者です。加害者から和解を申し出るのがどれだけ難しいことなのか、ある兄弟が私に教えてくださいました。

被害者の立場であれば、「私も神様から赦された罪人です。あなた(加害者)のことも赦します。この愛を受け取って下さい」と言えますが、加害者が被害者にそんなことを言えば、「どの口が言うのか」と被害者の神経を逆なでするだけです。

何度謝っても赦してもらえないことをしてしまったヤコブは、どうか私の手から私の贈り物を受け取ってください。私はあなたの顔を、神の御顔を見るように見ています。あなたが私を快く受け入れてくださいましたから。」というほかなかったのかもしれません。

エサウとヤコブ―これは神と罪人を表しているのではないかと、はっとしました。「ヤコブがしきりに勧めたので、エサウは受け取った。」と書かれています。私たち(加害者)も神様(被害者)にこのように毎日贈り物を押しつけているのかもしれない。本当は神様はそんなものを求めていないのに。

ホセア6:6  わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。

加害者ヤコブがするべき和解の務めは、被害者である兄の心を知り、兄をただ愛することだったのかもしれません。