創世記41章46節~42章38節「大切なものを捨てられるか」

創世記 42:33,34  すると、その国の支配者である人が、私たちに言いました。『こうすれば、あなたがたが正直者かどうか、わかる。あなたがたの兄弟のひとりを私のところに残し、飢えているあなたがたの家族に穀物を持って行け。そしてあなたがたの末の弟を私のところに連れて来い。そうすれば、あなたがたが間者ではなく、正直者だということが私にわかる。そのうえで、私はあなたがたの兄弟を返そう。そうしてあなたがたはこの地に出はいりができる。』」

42:36  父ヤコブは彼らに言った。「あなたがたはもう、私に子を失わせている。ヨセフはいなくなった。シメオンもいなくなった。そして今、ベニヤミンをも取ろうとしている。こんなことがみな、私にふりかかって来るのだ。」

作家の大江健三郎は、戦時中の貧困生活の中、9歳の時にキリスト教に出会っています。母親から預かったわずかな小麦を製粉して食糧の足しにするために水車小屋に行き、聖フランチェスコの読み物を見つけます。それを読んで、魂について本当のことを何か教えてくれる人がいたら、自分はその人について行かなければいけない、と思ったそうです。「自分がいつか信仰を持つのじゃないか、その時は何もかも捨てなければいけないだろう、その時本当に大切なものを捨てることができるだろうか」と感じたそうです。そして少年であった大江さんは、製粉した小麦をここで手放してでもキリストについて行くのかどうかを問われたとしたら、自分はこの小麦粉を捨てることはできない。母親ら家族たちは困るだろうと思い、小麦粉を抱きしめて母親の元に帰ったと言います。

後に大江さんはクリスチャンの集まる講演会で「私は皆さんのように信仰をもつことができなかったひきょうな人間です」と挨拶しています。

ヤコブは最愛のヨセフを失っただけでなく、末の子ベニヤミンをも取られそうになり、気が狂いそうになります。

大切なものを手放すことができるかどうか―ヤコブの、そして私の信仰が問われる試練です。