創世記29:31 主はレアがきらわれているのをご覧になって、彼女の胎を開かれた。しかしラケルは不妊の女であった。
ここでもレアとラケルが対比されています。(意訳)主はレアが夫に愛されていないのをご覧になって、彼女の胎を開かれた。しかし夫に愛されていたラケルは不妊の女であった。
長男ルベン(「見てください」)
レアは、夫がはじめての子を可愛がり、自分に振り向くことを期待したが、主がレアの悩みを見ておられました。
次男シメオン(「聞いて下さい」)
夫はレアの訴えを聞かなかったが、主はレアの心の叫びを聞いておられました。
三男レビ(「結びついてください」)
レアは夫とのつながりを切に求めたが、レアの近くにおられたのは神でした。
四男ユダ(「主をほめたたえます」)
ついにレアの心は夫から神に方向転換しました。もう子どもを通して夫に訴えたり、夫に近づこうとする必要はありません。レアは神の愛を知り、神をほめたたえるようになりました。そのとき、人類にイエスにつながる王の家系の先祖ユダが与えられたのです。レアにとっても人類にとっても転機でした。
レアは与えられたものを感謝して受け取りましたが、ラケルは与えられなかったことを妬みました。
創世記30:1 ラケルは自分がヤコブに子を産んでいないのを見て、姉を嫉妬し、ヤコブに言った。「私に子どもを下さい。でなければ、私は死んでしまいます。」
ラケルの心は夫の愛では満たされず、不満を夫にぶつけ、わがままな要求を夫にするようになります。
創世記30:6 そこでラケルは、「神は私をかばってくださり、私の声を聞き入れて、私に男の子を賜わった。」と言った。
ラケルは、神は私に味方してくれたと言いましたが、本当にそうでしょうか。
私たちクリスチャンは、「神が私たちの側についてくださる」という言い方をときどきします。ある尊敬する友人は言いました。「『神が私たちの側についてくださる』というのは私たちの傲慢の表れである。私たちに問われていることは、『私たちが神の側についているかどうか』なのだ。」
ラケルは神が自分の側についてくださり、神が私の訴えを聞き入れたと言いましたが、これはラケルの勝手な解釈です。ラケルが自分の欲望を自分の神にしたに過ぎません。真の神はここにはおられず、答えてもくださらなかったのです。
そしてラケルは、「私は姉と死に物狂いの争いをして、ついに勝った。」と言います。姉への嫉妬から、出産の勝ち負けを競っていただけです。このような気持ちでは子どもが生まれても喜びがあったとは思えません。レアとラケルのどちらが本当に幸せであったかは明らかだと思います。