創世記29章15節~30節「レアが流した涙」

創世記 29:17  レアの目は弱々しかったが、ラケルは姿も顔だちも美しかった。

英語ではレアの目は"tender"(優しい)であったと書かれています。目は口ほどに物を言い、その人の心が目に映し出されます。妹ラケルは外見の美しさが際立っていましたが、姉レアは内面の美しさをもっていました。

レアの目が優しかったのは、彼女が流した多くの涙のゆえではないでしょうか。

次女ラケルが次男ヤコブに嫁ぐなら、長女レアは長男エサウに嫁ぐのが世の中の道理です。しかし、エサウは、父イサクから霊的な資産を受け継ぐことに興味がありません。レアはエサウの霊的無関心に失望していました。神を求めていたレアが、ヤコブの妻となって、アブラハム、イサクに約束された子孫を残したいと願ってもおかしくありません。

レアをラケルの替え玉にしてヤコブをだましたのは、父ラバンの企みだとこれまで思っていました。私の想像の域を出ませんが、本当は、レアが涙を流して父ラバンにヤコブとの結婚を懇願したのではないでしょうか。人生の非常に重要な局面において女性は男が考えもしないことを思いつき、そして実行に移します。夫イサクをまんまとだましたリベカもそうでした。

レアがヤコブをだましたとなると、ヤコブには離婚の正当な理由があります。ラバンは、娘レアをかばって自分が計画したことのように言ったのではないでしょうか。ヤコブはラバンには逆らうことができません。ヤコブはレアを離縁しませんでした。

ラケルは不妊の女でした。レアがいなければ、救い主の家系であるユダ部族は生まれることはありませんでした。レアの勇敢な行為がなければ、ラケルの外見の美しさに心を奪われたヤコブに子孫の約束の危機が訪れるところでした。

ここに神の摂理があると思います。リベカとヤコブが結託してイサクをだましたことも、ラバンとレアが結託してヤコブをだましたことも、聖書は一言も非難していません。このような実に人間的な作為の背後にも、神が働いておられ、選びの民に御手をさしのべ、あわれんでおられます。

ローマ 9:15,16  神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。

アブラハムにもイサクにもヤコブにも、子孫の継承に危機がありましたが、神の御手がいつもそこにあり、危機一髪のところで約束のバトンが次の世代に渡されていきます。私たちの人生も失敗だらけですが、背後で神が働いておられ、すべてのことを働かせて益に変えてくださっています。