創世記27章30~45節「ゼロ回答に泣く」

創世記27:32,33  すると父イサクは彼に尋ねた。「おまえはだれだ。」彼は答えた。「私はあなたの子、長男のエサウです。」イサクは激しく身震いして言った。「では、いったい、あれはだれだったのか。獲物をしとめて、私のところに持って来たのは。おまえが来る前に、私はみな食べて、彼を祝福してしまったそれゆえ、彼は祝福されよう。」

エサウが主のみこころを変えようとした企ては、みごとに打ち砕かれました。イサクは神の介入を目の当たりにして神を恐れて激しく身震いし、我に返り、神に立ち返りました。 

He shall be blessed.「彼まことに祝福をうべし」(文語訳)とヤコブへの祝福を宣言しました。shallは契約文書でmustよりも拘束力のある義務を示します。ここにイサクの信仰の回復と悔い改めが見られます。

しかし新約聖書は、イサクがヤコブだけでなく、エサウをも祝福したと記しています。

ヘブル11:20  信仰によって、イサクは未来のことについて、ヤコブとエサウを祝福しました。

確かにイサクは次のようにエサウにも祝福を宣言しています。

創世記27:39,40  父イサクは答えて彼に言った。「見よ。おまえの住む所では、地は肥えることなく、上から天の露もない。おまえはおのれの剣によって生き、おまえの弟に仕えることになる。おまえが奮い立つならば、おまえは彼のくびきを自分の首から解き捨てるであろう。」

しかし、エサウへの祝福は、その内容からすると、何と「ゼロ回答」でした。日本の外交は、期待して相手に聞きに行ったら「ゼロ回答」でがっかりする経験を重ねています。北朝鮮の拉致問題、ロシアの北方領土問題、アメリカとの貿易交渉などです。こちらが誠意を尽くしても相手がゼロ回答だと確かにがっくりです。父イサクのエサウへの祝福は、祝福が何もないという宣言でした。しかしこれは全部エサウが取ってきた行動の結末です。

創世記27:38  エサウは父に言った。「お父さん。祝福は一つしかないのですか。お父さん。私を、私をも祝福してください。」エサウは声をあげて泣いた

神がヤコブに長子の祝福を与えたとしても、エサウにも子としての祝福がなお残っているはずでした。彼にも神の道を歩む祝福があったのです。それを受け取らなかったのは彼の責任です。God bless you. 神が祝福を差し出しているのにそれを受け取らなかったら、泣いても悔やんでも、もう遅いです。差し出されている祝福を逃さないようにヤコブのようにつかんでいきたいです。