創世記22:1 神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。
"Here I am"「はい、ここにおります」あちらでもそちらでもなく、ここ=「神の前」に立っています。イサクを献げるという人生の最大の試練のとき、アブラハムは神にこの言葉しか発していません。問答不要の全き献身。信仰は研ぎ澄まされるときわめてシンプルになります。
この同じ言葉をアブラハムはモリヤの地を目前にした最後の行程でイサクに語りかけています。
創世記22:7,8 イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク。」と答えた。
たたならぬことを察したイサクがついに沈黙を破り「父よ」と呼びかけたとき、アブラハムは「わが子よ。わたしはここにいる(Here I am)。」と答えています。(「何だ。イサク」という新改訳聖書の翻訳は昭和のお父さんみたいでセンスないですね。)
「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」心細く、恐れを抱き、死をすら覚悟して身もだえるイサク。父アブラハムの"Here I am"はどれほど強くイサクの心を支えたでしょうか。ここに父と子の間の無言の愛を見ます。
「わが子よ。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださる。」父アブラハムの究極の確信に満ちた信仰の答えにイサクは満足しました。アブラハム自身も自分が出した信仰の答えに満足しています。ふたりはこれ以上、言葉を交わすことなくモリヤの地に歩いていきます。アブラハムの全き献身"Here I am"はイサクの全き献身"Here I am"になります。
ここまで来ると、アブラハムとイサクの話をしているのか、父なる神とひとり子イエスキリストの話をしているのか、わからなくなってきます。これはイエスのゲッセマネの祈りの葛藤のシーンであると思います。
マルコ 14:36 またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」
イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られ、汗が血のしずくのように地に落ちました。「アバ、父よ」と叫ぶイエス。イエスのゲッセマネの祈りに父なる神は「わが子よ、わたしはここにいる(Here I am)。」と答えられたのだと私は思います。
そして、キリストは、この父なる神の愛に「わたしはここにおります("Here I am")。わたしを全焼のいけにえとして用いて下さい。」と応答されたのです。
ヘブル10:5 ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。
10:6 あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。
10:7 そこでわたしは言いました。『さあ、わたしは来ました("Here I am")。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行なうために。』」
「わたしはここにおります。」モーセ(出3:4)もサムエル(1Sa 3:4-8)もイザヤ(イザヤ6:8)も言いました。そして最後にキリストが言われたのです。次は私たちが言う番です。「わたしはここにおります。主よ、用いて下さい。」