創世記21章8~13節「あっぱれ、サラ!」

創世記 21:10  それでアブラハムに言った。「このはしためを、その子といっしょに追い出してください。このはしための子は、私の子イサクといっしょに跡取りになるべきではありません。」 

サラがハガルを追い出すのはこれで二回目です。一回目は身ごもったハガルにサラが嫉妬したことによる家庭内不和が原因でした。若い女奴隷ハガルにも落ち度がありましたが、アブラハムとサラの間の夫婦の問題もあったようです。

しかし、2回目の出来事は、霊的な目で見る必要があります。というのは、サラのこの発言はそのまま新約聖書に引用され、非常に重要な意味をもつものとして扱われているからです。

ガラテヤ4:30  しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。

女奴隷ハガルに生ませたイシュマエルもアブラハムの子であり、アブラハムの跡を継ぐ権利があります。しかも彼は長子です。サラは、イシュマエルはイサクとともに跡取りになるべきではない、アブラハムの家から追い出すべきであると、強く主張しました。

奴隷をその子といっしょに追放することは、法的に言えば奴隷を解放することを意味します。奴隷は主人のもとから解放されれば、自由になり、アブラハムの家とは縁が切れます。

「このことは、自分の子に関することなので、アブラハムは、非常に悩んだ。 」奴隷に生ませた子とはいえ、実の子を追い出して縁を切れと言うのだから、アブラハムが悩むのも無理のないことでした。夫婦は自転車の左右のペダルのようなものです。右ペダルが後退すると、左ペダルが踏まれます。躊躇するアブラハムに対して、このとき信仰のペダルを踏んだのは妻のサラでした。

イシュマエルがアブラハムの家にいる限りは、イシュマエルもアブラハムの子です。アブラハムがイサクをささげる試練を受けたとき、長子イシュマエルが家にいたなら、イシュマエルを跡取りにすることもできるという打算がアブラハムに再び働いたでしょう。それではアブラハムにとって全き献身ではありません。イシュマエルを家から追放してイサクはどうしても「ひとり子」にならなければなりませんでした。

ためらうアブラハムの背中を力強く押したのはサラでした。アブラハムの人生におけるサラの最大の功績だったと思います。先にイシュマエルを手放したこの辛い経験が、アブラハムをひとり子イサクを献げる偉大な信仰の父へと成長させました。まさに「内助の功」です。

霊的な献身をするとき、肉の思いを一ミリでも残していたら、それが聖霊の働きを妨げます。本当にしたいことをするとき、肉の願いを切り離す覚悟が要ります。

ガラテヤ5:17  なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。