創世記21章1~7節「サラの胎が開かれた日」

創世記 21:1  主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。 

誰でも一人の母から生まれてきます。

約束の子イサクが誕生するこのすばらしい箇所は、この直前の創世記 20:18の「主が、アブラハムの妻、サラのゆえに、アビメレクの家のすべての胎を堅く閉じておられたからである。」と合わせて読まれるべきだと思います。

アビメレクの家のすべての胎が堅く閉じられたのは、アブラハムとサラの不信仰のゆえでした。夫婦がこの不信仰を乗り越えたとき、同じように堅く閉じられていたサラの胎も開かれました。

神様が約束したことを実現なさらないのは、神の手が短くて私たちを助けることができないのではなく、私たちの側にある不信仰のゆえです。私たちの不信仰が神の道をふさいでいます。

イサク誕生という約束の成就の舞台裏には、サラの尊い信仰があったことを新約聖書は明らかにしています。

ヘブル11:11  信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。

このサラの信仰はアブラハムの信仰と美しくもシンクロしています。

ローマ4:21  神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。 

いうまでもなく アブラハムだけでは、子は生まれてきません。サラの堅く閉じられた胎が開かれなければ、それは不可能です。

夫は「約束を成就する神の力」を信じ、妻は「約束してくださった神の真実」を信じました。そのとき上から「子を宿す力」が妻の体に下り、胎が開かれました。自転車は片側のペダルだけではこぐことができません。夫婦の信仰が左右のペダルのように交互にそして一対になったとき、事が起こります。

アブラハムに寄り添うサラの信仰がなければ、また、サラを支えるアブラハムの信仰がなければ、この奇跡は起きませんでした。神の約束から25年ーこの気の遠くなる長い年月は、夫婦の信仰がシンクロナイズするまでに要した時間だったように思います。沖縄と東京、離れて暮らす私たち夫婦にもこのシンクロナイゼーションが起こることを願って祈ります。