創世記20章1~18節「アビメレクの前に立たされたアブラハム」

創世記 20:9  アビメレクはアブラハムを呼び寄せて言った。「あなたは何ということを、してくれたのか。あなたが私と私の王国とに、こんな大きな罪をもたらすとは、いったい私がどんな罪をあなたに犯したのか。あなたはしてはならないことを、私にしたのだ。」 

アブラハムが異教徒であるアビメレクに問い詰められています。してはならないことをしたのはアブラハムで、アビメレクに何の罪もなかったことは神も認めておられます。アブラハムが間違いを犯したために、罪のないアビメレクの家族と王国は災いを受けました。

創世記20:10  また、アビメレクはアブラハムに言った。「あなたはどういうつもりで、こんなことをしたのか。」 

アブラハムはその動機も厳しく問われました。アブラハムは3つの言い訳をして自分を正当化しましたが、およそ説得力はありませんでした。

国会で佐川氏の証人尋問がありました。公文書の書き換えを誰が、いつ、何のためにしたのかと厳しく問い詰められましたが、何も答えず、保身をはかるのみでした。

アブラハムは本当にみじめだったと思います。神の人アブラハムが、世人であるアビメレクに公衆の面前で厳しく糾弾される姿は、見るに堪えません世の人に「クリスチャンのあなたがこんなことをしていてはいけない、しっかりしなさい」と言われているのです。私も長い信仰生活の中でそのような苦い経験があります。穴があったら隠れたいこともありました。

しかし、みじめな姿のアブラハムに神が言われたことは「恥をさらすのをやめて早く帰りなさい」ではありませんでした。

神がアブラハムに言われたことは「あなたは預言者(神のことばを預かり、人々に告げる者)なのだから、あなたがアビメレクのためにとりなしをしなさい」ということでした。しかも、その神の言葉をアビメレクを通して聞かされなければなりませんでした。なんということでしょう。

アブラハムはいったいどんな気持ちでアビメレクの前に立ったのでしょうか。自分のせいで災いを受けている当人の前でとりなしの祈りなどできるでしょうか。神の前に崩れ落ち、自分の過ちを認め、悔い改めるしかなかったと思います。ソドムの町のためにとりなしの祈りをしたあの信仰の勇者の姿はここにはありません。

アビメレクはアブラハムの情けない姿に躓いたでしょうか。いいえ、アビメレクは後にアブラハムに「あなたが何をしても、神はあなたとともにおられる。 」(創世記21:22)と告白するようになります。アブラハムの信仰がこのとき、もし完全無欠であったなら、アビメレクは神に出会うことはありませんでした。

不完全で頼りない信仰の私たちを、神は、人々をあわれみ深い神に導く器として用いてくださっています。そのことを考えるとき、深い慰めがあります。