創世記19章30~38節「消したくなる過去の記録」

創世記 19:32  さあ、お父さんに酒を飲ませ、いっしょに寝て、お父さんによって子孫を残しましょう。

ロトと未婚の娘ふたりの間に近親相姦によってモアブ人とアモン人の先祖が生まれました。

のちに、ユダは、長男エルの嫁タマルとの間に双子の子どもを産みます。そして、ダビデはウリヤの妻バテシェバと姦淫の罪を犯します。

どれも目を覆い隠したくなる3人の男の性的不品行ですが、この三つの忌まわしい出来事が一つに結びつくすばらしい瞬間があります。それがイエス・キリストの誕生です。マタイは神の子イエス・キリストの系図を記録したとき、このおぞましい出来事を隠すことはせず、すべて明るみに出しました。

マタイ 1:1  アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。 

1:2  アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟たちが生まれ、 

1:3  ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ、パレスにエスロンが生まれ、エスロンにアラムが生まれ、 

1:4  アラムにアミナダブが生まれ、アミナダブにナアソンが生まれ、ナアソンにサルモンが生まれ、 

1:5  サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツ(注:ロトと娘の間に生まれたモアブ人の子孫)によってオベデが 生まれ、オベデにエッサイが生まれ、 

1:6  エッサイにダビデ王が生まれた。ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ、 

マタイは、神の子イエス・キリストの系図を詳細に記録する中で、愚かな人間の犯した性的不品行を消し去ってイエスの家系を汚れなく、きれいなものに改ざんする誘惑にかられることはなかったのでしょうか。

今、国会では、森友学園を巡って、財務省による公文書の書き換え(改ざん)の動機が追求されています。書き換えてしまいたい経緯があります。しかし、一つを削除すると、つじつまを合わせるために他のことも削除しなければならなくなります。

イエス・キリストの家系に起きた不都合な出来事を隠すために、ロト、ユダ、ダビデの不品行の記録を削除するのでしょうか。人間にとって不都合な事実を聖書から削除していくと、聖書はすかすかの本になってしまいます。いや、聖書の一節も残らないと私は思います。イエスの十字架の時に逃げ、復活を信じることができずに狼狽する弟子たちの失敗を隠すには十字架と復活の出来事の全体を削除せざるをえません。エデンの園で起きたアダムとエバの罪を隠すなら、エデンの園が作られた経緯、すなわち天地創造の出来事全体を聖書から削除しなければなりません。

逆に言えば、聖書が今日、このような形であるのは、人間の失敗と罪が包み隠さず記録されているからであり、人間の罪を赦す神の愛と哀れみがそこに啓示されているからだということになります。

来週、国会で公文書の改ざんについて追求がさらに勢いを増します。さらに追い詰めれば、また自殺者が出てもおかしくないと思います。私は聖書を持って行って「この本に一体何が書いてあるのか、知っていますか」と叫びたくなる衝動にかられます。

聖書は人間が高いところから高邁な理想と道徳を語った本ではありません。聖書は、人間の失敗と罪の記録です。神の子イエス・キリストの系図は、人間の不品行の罪ですら、それを悔い改めるなら、神の恵みに変えて下さることを示しています。そこに希望があり、慰めがあります。いったい、失敗もしない罪も犯さない人間がいるのでしょうか。取り返しのつかない罪や失敗はありません。悔い改めれば、やり直せます。失敗を恐れず、隠さず、認めること。そして、相手を赦すことです。そこからやり直して欲しいです。

ローマ 5:20  罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。