創世記 19:27 翌朝早く、アブラハムは、かつて主の前に立ったあの場所に行った。
19:28 彼がソドムとゴモラのほう、それに低地の全地方を見おろすと、見よ、まるでかまどの煙のようにその地の煙が立ち上っていた。
19:29 こうして、神が低地の町々を滅ぼされたとき、神はアブラハムを覚えておられた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼされたとき、神はロトをその破壊の中からのがれさせた。
アブラハムは、主の前に立って、体を張って、ソドムの破れ口をふさいで滅びから守ろうとしました。罪人のために身代わりになったイエス・キリストの姿です。
エゼキエル 22:30 わたしは、国のために石がきを築き、わたしの前にあって、破れ口に立ち、わたしにこれを滅ぼさせないようにする者を、彼らのうちに尋ねたが得られなかった。
とりなしの祈りは必ず祝福が伴います。ロトはアブラハムのとりなしのおかげで危機一髪、救われました。
とりなし(intercession)の祈りとは、神とその人の間に立って、その人に代わって祈ること。
代わりに祈る。その人自身がクリスチャンでないから神に祈れない、その人がクリスチャンであっても試みに会っているから、その人は祈れない。
あなただけが知っていて、あなたが祈らなければその人のために祈る人は他にいない、そういう人が身近にいるはず。
昨夜の聖書の学び会では、それぞれの心にあるそのような人を一人ずつ名前をあげてもらって「とりなしの祈り」をしました。名前も知らない、会ったこともない人ばかりでしたが、その人のことを名前をあげて覚えて祈りました。アブラハムがソドムの人々のために祈ったときもそうだったと思います。
クリスチャンでしかできない「とりなしの祈り」の特権。祝福に満ちた幸せな時間でした。クリスチャンの兄弟姉妹のとりなしの祈りは、きっと神に聞かれると思います。