創世記 17:15 また、神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。
17:16 わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」
不妊の妻サラにひとりの男の子を与えるという神の確かな約束と、サラを国々の母にするという身に余る祝福。アブラハムは全き信仰をもって神の約束と祝福を受け取りました。
17:17 アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」
それなのにこの笑いと心の声はいったい何でしょうか?これをアブラハムの苦笑と不信仰のつぶやきと考える人もいますが、パウロはこの箇所をこう解説します。
ローマ 4:19 アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。
4:20 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、
4:21 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。
アブラハムの笑いと心の声は、疑いや絶望ではなく、神の契約と祝福に対するアブラハムの強い確信から湧き出た歓喜の笑顔と感激の言葉であったと私は思うのです。
聖書でしばしば見られる反語表現ではないでしょうか。「反語」とは、「断定を強調するために、言いたいことと反対の内容を疑問の形で述べる表現」のこと。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。いや、全能の神には不可能なことは何もない!」
自分が本当に無力であることを完全に認めたときに、全能である神が現れ、自分の弱さの上に神の恵みがあふれます。アブラハムの「笑い」は、全く無力である夫婦の上に注がれた予期せぬ神の恵みに対して、心の奥底からあふれ出た喜び、笑い、感謝であったと思います。
17:18 そして、アブラハムは神に申し上げた。「どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように。」
アブラハムはとりなしの人です。約束された男の子(イサク)が契約の祝福を受けるとき、奴隷に生ませた子どもの運命はどうなるのか、アブラハムは案じ、イシュマエルが神の祝福から漏れることのないようにと切に願いました。
17:19 すると神は仰せられた。「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。
17:20 イシュマエルについては、あなたの言うことを聞き入れた。確かに、わたしは彼を祝福し、彼の子孫をふやし、非常に多く増し加えよう。彼は十二人の族長たちを生む。わたしは彼を大いなる国民としよう。
17:21 しかしわたしは、来年の今ごろサラがあなたに産むイサクと、わたしの契約を立てる。」
神の答え「いや」は、英語聖書(New International Version)では「No」ではなく、「Yes, but」です!アブラハムのとりなしの祈りに対する神の答えは、まずはYesでした。そして、Butでもありました。「イシュマエルのことはよくわかった。あなたの願いをかなえよう。しかし、私はサラから生まれるイサクとわたしの契約を立てる。」
Yes, butの神。「Yes」ー神はアブラハムの小さな願いを退けたのではなく、聞き入れてくださいました。それもただ聞き入れただけでなく、大きく大きく答えてくださいました。「But」ーしかし、それだけでは終わりませんでした。神はさらにもっと大きな、サラからイスラエルの民を起こすという計画をアブラハムに用意しておられました。
私たちは自分の小さな祈りを聞き入れてもらうのに必死です。しかし、神はもっともっと大きなことを私たちに用意しておられ、それを見させて下さるのです!アブラハムのようにそれを受け取り、信じることができるように。