創世記17章1~3節「I willである神」

創世記 17:1  アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。 

私たちは神に頼るといっても、自分であれこれ画策し、自分の努力を付け加えたり、「私はこうしたいから、神様にはここでこう働いて欲しい」という都合の良い条件付きであったりします。自分の側に何の力もないというところまで追い詰められなければ、100%神に頼ることがありません。

神はアブラムが99歳になり、人間的に考えられるすべての手段を使い尽くし、神以外に頼るものがなくなるまで待たれました。アブラム夫妻に子が与えられるとしたら、奇跡以外の何ものでもありません。そこまで来てやっとアブラムに全き信仰が働きました。

アブラムに全能の神(エル・シャダイ)が臨みました。それまでも全能の神であられたのに、アブラムにはそのように見えていなかったのです。私たちの心に自分の力に少しでも頼るところが残っている限り、神は「全能」の神として現れることができません。

全能の神がその後アブラムに約束した契約はすべて「I will(わたしは~する)」で始まります。私たちが何かをするのではありません。全能の神がしてくださるのです。

昨夜の聖書の学びでは、両親のことを分かち合いました。仏壇を処分した両親が昨年12月17日の礼拝に来たとき、私は両親が私の礼拝メッセージを聞いて救われるのではないかと思っていました。おごり高ぶった浅はかな考えでした。その日の夜に分かったことは、私の母の心が仏教系の新興宗教に依然として囚われていたこと、私のメッセージを聞いても母の心は1ミリも動かなかったことでした。37年前の暗黒の状態に引き戻され、がっかりし、あまりの無力感でその夜はうちひしがれてしまいました。

翌日、やっとの思いで、高原剛一郎先生の「神の愛とキリスト」のビデオを両親にいっしょに見ました。両親は食い入るようにしてメッセージに耳を傾け、神の愛が両親の心に届きました。姫路の教会に毎週行くことにするという父の言葉が最後の最後で出ました。

救いは神がなさるわざであり、私がすることではないことがよくわかりました。

I willである全能の神=エル・シャダイに全き信頼を置くこと無力な赤ん坊が母親の胸に抱かれて乳をむさぼり飲むように、自分の無力を悟り、ただ全面的に神により頼むことだけをします。