創世記9章1~7節「神の祝福と命の尊厳」

創世記9:1 それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。

9:2 野の獣、空の鳥、・・地の上を動くすべてのもの・・それに海の魚、これらすべてはあなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。

9:5 わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する

繁殖は神から与えられた祝福です。アダムが創造されたときはすべてが良く、人間も動物も菜食で自然界に平和で美しい秩序がありました(イザヤ11:6-9)。

洪水後の世界にも同じように繁殖の祝福がありましたが、人間の肉食が始まり、動物の世界でも弱肉強食になり、弱い動物は強い動物の餌食となりました。これは本来の秩序ではありませんでしたが、人が動物を支配することができるように、動物には人に対する恐れが与えられました。そして、人が人を支配することができるように、人には人の命を奪う権力(社会規範としての死刑制度)をもつ支配者を恐れる心が与えられました(ローマ13:3)。

9:6 人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから。

洪水後の世界の統治を委ねられた人間に神は「命の尊厳」を教えられました。命の尊厳は、あらゆる社会規範の根源となるものです。人を傷つけるとき、「神のかたち」が傷ついていることを覚えなければなりません。しかし、洪水後の人類の歴史は、命の尊厳を守ることに失敗した歴史でした。やまない戦争、殺人、テロ・・・。終戦記念日にNHKスペシャル『インパール作戦 』を見ました。日本軍の指導者が若い兵士の命を激しい戦場の捨て駒にした目を覆いたくなる出来事でした。

洪水後、何千年経っても、私たちは義と平和とが互いに口づけする(詩篇85:10)のを未だに見ていません。そしてますます悪くなる一方です。人間は自分の力で世界を正しく統治することができません。 イエス・キリストが十字架の上で流された血にしか、私たち罪人が立ち返る場所がなく、そこにしか正義と平和を実現する手段がないことを覚えます。

ヘブル 9:14 まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。