創世記 25:24-26 出産の時が満ちると、見よ、ふたごが胎内にいた。最初に出て来た子は、赤くて、全身毛衣のようであった。それでその子をエサウと名づけた。そのあとで弟が出て来たが、その手はエサウのかかとをつかんでいた。それでその子をヤコブと名づけた。
兄エサウのかかとをつかんで生まれてきたヤコブ。ヤコブは、二度も兄エサウを出し抜き、押しのけることでエサウから長子の権利と祝福を奪うことになります。
蛇(サタン)も女の子孫(キリスト)のかかとにかみつきました(創3:15)。道のかたわらの蛇が馬のかかとをかむと、乗る者はうしろに落ちます(創49:17)。
ヤコブはエサウの弱みに乗じ、油断につけこみました。ヤコブの卑怯な生き方は「かかとをつかむ」という表現に凝縮されていますが、この表現は良い意味にも用いられます。メシュク先生が日曜日に説教してくださったヤボクの渡し(ペヌエル)での神との格闘の出来事です。
ヤコブは神との格闘の末、もものつがいを打たれ、歩けなくなります。ヤコブは這いつくばって、去りゆく神(キリスト)に後ろからしがみつきます。ヤコブはキリストのかかとをつかんだと思います。
創世記 32:26 ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
「あなたの名は何というのか。」神はヤコブに自分の名を言わせます。「ヤコブ(かかとをつかみ、人を押しのける者)です。」ヤコブが神の前に自分の卑怯さを認め、告白した瞬間、人生のクライマックスです。
ヤコブはこのとき実に97歳です。人間は歳を取っても、持って生まれた性格は変わらないばかりか、若さを失うことで元来の自分の性格が顕わになることがあります。
創世記 32:28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。」
なんという慰めでしょうか。自分の弱さを神の前に認めるとき、神はその弱さを私たちから取り上げて神の祝福の御手の中に入れて下さいます。自分の手に握りしめ守ってきた自分の生まれながらの性質は今は聖霊の宮の中にあります。
「あなたの名は何というのか。」神様は私にも問いかけています。あなたは何者であり、どんな弱さと格闘しているのかと。それを神に預けるとき、祝福に変えられます。「あなたはもうヤコブとは呼ばれない。」