創世記24章28~60節「このことは主から出たことだから」

創世記24:50,51  するとラバンとベトエルは答えて言った。「このことは主から出たことですから、私たちはあなたによしあしを言うことはできません。ご覧ください。リベカはあなたの前にいます。どうか連れて行ってください。主が仰せられたとおり、あなたの主人のご子息の妻となりますように。」

人生の重大な決定をしなければならないとき、選択肢がいくつもあると、どれが良いのか選択に迷いますし、迷ったあげくに選択した結果が良かったのかどうか、後であれこれ思い直したり、悔やんだりすることになります。

ランチに何を食べるかなどどうでもいいことには多くの選択肢をもち、あれこれ思案しますが、人生の重大な選択であればあるほど、私は選択肢を最初からたった一つだけにしてきました。就職、結婚、転職など人生の重大な選択の局面でなぜかそうしてきました。選択肢が一つしかないので選択肢とも言えません。目の前にあることを選択するかどうかだけです。

選んだ結果はもう一度選び直すことはできません。しかし、目の前のことが、主から出たものであれば、それを選択しても後悔はないはずです。むしろ選択した結果の中に「主」を見出すことの方が大事だと思います。

アブラハムのしもべが神の導きについて一通り語るのを聞いたとき、父ベトエルの心にも、兄ラバンの心にも、これは神から出たことであるという確信がありました。

創世記24:58  それで彼らはリベカを呼び寄せて、「この人といっしょに行くか。」と尋ねた。すると彼女は、「はい。まいります。」と答えた。

選択肢はありません。行くか行かないのかだけです。目の前にイサクの姿はありませんでしたが、リベカの心には花嫁になる深い確信がありました。

聖霊の静かな語りかけと促しに応じるか、応じないか、それだけです。聖霊の御声に従うなら、選択した結果が良いものであることは、後からついてくることだと思います。