創世記16章1~6節「肉の行いとその報い」

創世記16:2  サライはアブラムに言った。「ご存じのように、主は私が子どもを産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにおはいりください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう。」アブラムはサライの言うことを聞き入れた。 

口語訳聖書は「サライはうまずめで、子がなかった」(創世記11:30)と記し、文語訳聖書は「石女」と書いて「うまずめ」と読ませました。

不妊の女は今では考えられないほど、社会的差別があり、惨めな思いをしていたと思います。サラの受けていた世間の無言の抑圧を考えると、サラの取った行動を責めることはできません。しかしそこにあったのは、神の約束への信仰というより、人間的な苦肉の策でした。アブラハムは神の声ではなく、サラの言うことを聞きました。

その結果は、夫婦喧嘩、家庭不和。女奴隷から生まれたイシュマエルはアラブ民族を形成し、イサクの子孫イスラエル民族との激しい対立を生みました。それはパレスチナ問題として今でも残っています。トランプ大統領はイスラエルの首都がエルサレムであることを承認する歴史的演説をしました。アブラハムの小さな家庭での失敗が、世界の究極の難題であるパレスチナ問題(エルサレムの帰属問題)までに発展したのです。

ガラテヤ 6:7,8  思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。 自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。

クリスチャンだから、何をしても神様が許してくれるから大丈夫という甘い考えは良くありません。神の計画と人の計画。自分の思いは神の思いと一致しているか。神の計画を肉の力で実現しようとしてもだめです。

ガラテヤ 4:22,23  そこには、アブラハムにふたりの子があって、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生まれた、と書かれています。 女奴隷の子はによって生まれ、自由の女の子は約束によって生まれたのです。 

今日の肉の思いを十字架につけ、明日の神の約束を信じて歩みたいと思います。