創世記17章22~27節「アブラハムに割礼を授けたのは誰か」

創世記 17:23  そこでアブラハムは、その子イシュマエルと家で生まれたしもべ、また金で買い取った者、アブラハムの家の人々のうちのすべての男子を集め、神が彼にお告げになったとおり、その日のうちに、彼らの包皮の肉を切り捨てた。 

17:26  アブラハムとその子イシュマエルは、その日のうちに割礼を受けた。 

17:27  彼の家の男たち、すなわち、家で生まれた奴隷、外国人から金で買い取った者もみな、彼といっしょに割礼を受けた。 

アブラハムの家の男子全員が割礼を受けたことが2回繰り返して記載されています。同じことを2回繰り返して書いたのはなぜか、考え続けた結果、前者と後者には大きな違いがあることに気づきました。

前者は「アブラハムが家の男子全員に割礼を授けた」。後者は「アブラハムと彼の家の男子全員は割礼を受けた」。

前者は能動態(Abraham circumcised the men.)、後者は受動態(Abraham and the men were circumcised.)です。 

後者から前者を引き算すると、「アブラハムが割礼を受けた」ことが浮かび上がる構造になっています。これは読者に考えさせるためだと思います。

一つは老人になったアブラハムも割礼を受けたということ(おそらく率先して一番最初に受けたのではないでしょうか)ですが、もう一つは誰がアブラハムに割礼を授けたのか?」という重大な疑問を読者にもたせるためだと思います。

聖書は読者がいだく疑問に対して沈黙しています。この沈黙にこそ意味があると思いました。

アブラハムの家の男子にはアブラハムが割礼を施したことが明確にされています。しかし、アブラハムに割礼を施したのはいったい誰だったのか、聖書は沈黙するのです。

これはアブラハムが誰の手にもよらず割礼を受けたことを暗示していると思うのです。答えは新約聖書の中にありました。

コロサイ 2:11  キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。 

アブラハムが実際にどのような手段(誰)によって割礼を受けたのかはわかりませんが、少なくとも霊的な意味において、アブラハムは人の手によらずに神の御手によって割礼を受けたのだと読者に考えさせるように、聖書のテキストは書かれているように思います。

このゆえに、アブラハムは最初に割礼を受けた者としてユダヤ人の父ですが、人の手によらないキリストの割礼を受けた者として私たち異邦人の父でもあると言うことができます。今日、この割礼は、御霊による心の割礼(新生)としてすべてのクリスチャンに与えられています。私たちが救われたのは人の手によるわざではなく、神の手によるわざでした。

アブラムは神の御手によって肉の力(包皮の肉)をそぎ落とされ、信仰の人アブラハムとなりました。創世記17章を最初から最後まで貫いているのは、「全能の神の前で、全き者である」=自分の力に頼らずに、神の全能の力に完全に信頼することです。アブラハムの受けたキリストの割礼にその原点を見ました!