創世記 15:1 これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」
幻のうちにアブラムに臨んだ『主のことば』とは、アブラムに語られたことばを指しているのではなく、一人の人格である方を指しています。アブラムはその方を「主なる神」(アドナイ・ヤハウェ)と呼び、この方と対話しています。天幕の中での遠慮のない会話。そして『主のことば』であるこの方は、神の約束を信じ切れないアブラムを外に連れ出して夜空を見上げさせます。
アブラムが幻のうちに出会い、親しく言葉を交わすことのできた『主のことば』である方は、受肉前のキリスト=ロゴス(ことば)であったと思います(ヨハネ1章)。イエス様もアブラハムがわたしを見て喜んだと証言されました。アブラムが『主のことば』である方と肩を並べて夜空を見上げたこの日の出来事のことだったのはないでしょうか。
ヨハネ 8:56 あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。」
「星を数えることができるなら、それを数えなさい。あなたの子孫はこのようになる。」
星は無数であるのに、あなたの子孫(seed)は不思議なことに「単数」です。
「ところで、約束は、アブラハムとそのひとりの子孫に告げられました。神は『子孫たちに』と言って、多数をさすことはせず、ひとりをさして、『あなたの子孫に』と言っておられます。その方はキリストです。」(ガラテヤ3:16)
『主のことば』である方は「一粒の種(seed)が満天の星のようになる」と約束されたのです。
ヨハネ 12:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
アブラハムの肉の子孫であるイスラエルが星の数のようになるという表面上の約束には、キリストから信仰の父アブラハムの霊の子孫が増え広がるという霊的な意味が隠されていました。
アブラムは確かにキリストに出会いました。そして『主のことば』であるキリストを信じました。主はそれを彼の義と認められました。 「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」(ローマ3:22)がここから始まりました。私たちの信仰の原点がここにあります。
「私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」 「私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」人間はあれこれ悩んだ末、自分の限られたリソースでなんとかやり過ごそうとし、神の力ある働きを制限してしまいます。
『主のことば』はアブラムの人間的な考えを「その者があなたの跡を継いではならない。」ときっぱりと、そして強く否定しました。そして「ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」 と命じました。
今朝、実家の母から電話があり、先祖代々の墓を取り壊して、寺に引き取ってもらい、家にあった仏壇を処分したことを聞きました。私がクリスチャンになってから、37年もの間、両親を縛ってきた偶像が消えてなくなりました。83歳になる父の一大決心とそれに従った母の決意です。まことの神の働きなくしては起きなかったことであり、人の手はどこにも加えられていません。神が事を起こされるとき、人間があれこれ案じたり、画策したりことは全く必要のないことでした。