創世記39章1節~23節「ヨセフに見た自己犠牲の愛」

創世記 39:19,20  主人は妻が、「あなたの奴隷は私にこのようなことをしたのです。」と言って、告げたことばを聞いて、怒りに燃えた。ヨセフの主人は彼を捕え、王の囚人が監禁されている監獄に彼を入れた。こうして彼は監獄にいた。

ヨセフを誘惑したポティファルの妻は大芝居を打って、ヨセフが自分に手を出したと言い張ります。ポティファルは、家の者たちの前で妻の訴えを認め、ヨセフを監獄に入れてしまいます。

ポティファルは妻の真っ赤な嘘を見抜けなかったのでしょうか。ポティファルも大芝居を打ったというのが私の見立てです。家のしもべたちの前で妻の浮気が明らかになると、恥をかくのはポティファルです。男の沽券にもかかわります。

妻の言葉を本気で信じたなら、ヨセフを即刻死刑にしていたはずです。ポティファルは妻の嘘をうすうす知りながら、皆の手前、怒りを表し、ヨセフを監獄に入れたのではないでしょうか。

それにしても、ヨセフはなぜ本当のことを言わずに黙っているのでしょうか。

ヨセフが無実を主張すれば、代わりにポティファルの妻が裁かれます。忠誠を誓った主人の妻を守るため、ヨセフは自ら進んで犠牲になりました。

ポティファルは、イエスに罪がないのを知りながら十字架につけたピラトと重なります。そしてヨセフはピラトに何も答えなかったイエスに重なります。自分を犠牲にする愛、これこそ、クリスチャンの最大の武器です。なかなかできることではありません。

マルコ 15:4,5  ピラトはもう一度イエスに尋ねて言った。「何も答えないのですか。見なさい。彼らはあんなにまであなたを訴えているのです。」それでも、イエスは何もお答えにならなかった。それにはピラトも驚いた。

1ペテロ 2:22,23  キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。