七章 勇気

   主は私の羊飼い。それゆえ私にはいつも勇気があります。

「私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」(四節)

 羊にとってとりわけ必要なことが一つあるとすれば、それは勇気です。しかし闘う勇気ではありません。羊は闘うことはできません。羊は闘うこととは何の関係もありません。事実、羊は家畜の中でおよそもっとも無力な動物なのです。それではなぜ羊に勇気が必要でしょうか。仮に羊が獅子のごとく勇気を持つことができたとしても、小さな羊殺しの犬の前には、まったく無力なのです。羊には勇気が必要ですが、獅子と闘う勇気ではなく、羊飼いを信頼する勇気です。そして獅子と闘うよりも、羊飼いに信頼することの方が勇気が必要であることを強調して申し上げたいと思います。私たちは自分を守るために「自分が何かをやった!」という感覚を持ちたいのです。人生のある時点で、自分の力でサタンに一撃を加えてノックアウトしたと感じたいのです。それができたらどんなにか気持ちのよいことでしょう! しかし、愛するみなさん、私たちの内部にはサタンをノックアウトできるものが何もないのです。私たちは闘うためのものを何一つ持っていないのです。私たちは無力な羊にすぎず、羊飼いが敵に備えることができないなら、私たちはきっと、人生の砂漠のどこかで、引き裂かれ、血を流しているのを発見されることになるでしょう。

しかし、このような状況の中に主イエス・キリストが来てくださり、ご自身をすべての信じる者に羊飼いとしておささげになられ、人生のあらゆる緊急事態や危険に対処してくださるのです。
羊の群れが草を食んでおり、一匹の羊がやわらかくおいしい草の茂みに鼻を下ろしていたとき、獅子の吠える声が聞こえ、獅子がむこうの山腹から駆け降りてきました。そのとき羊がしなければならないことは、頭をあげて羊飼いがそばに立っていることを確かめることだけです。それからまた鼻を緑の草の茂みに戻し、食べつづけ、獅子のことは羊飼いにまかせます。そしてこれには勇気がいるのです!

ああ、神の子たちよ、私たちはどれほど、人生を脅かすものに私たちの緑の牧場での食事を中断されるがままになっていることでしょうか! 私たちはあまりに恐れ、袖をまくって身構え、行動を起こそうとします。そんなことをしてはいけないのです、皆さん!あなたは行動を始める前に鞭で打たれます。あなたは食べ、飲み、羊飼いに闘いを任せればよいのです。

数年前ルーズベルト前大統領が北大西洋会議からもどってきたとき、「四つの恐れ」を根絶するための偉大な闘いを計画し着手したこと、そして積極的な面では「四つの自由」と呼ばれるプログラムを開始したことを発表したのを覚えている人も多いでしょう。その考えは四つの恐れを相殺する四つの自由があるというものでした。それ以来、私たちは驚くべき状景を目撃しました。四つの恐れの根絶ではありません。四つの恐れが四十四以上に増大したということです。ルーズベルト大統領と彼の同僚が約束した自由はどこか「間近に」来ていますが、その間近というのは私たちからあまりにも遠く離れたことであるため、それを私たちの生涯の間に取り戻すのは残念ながら期待しても無駄ではないかと思われます。

神の国を地上にもらたし、結果的にはすべての祝福を人類にもたらさんとする人間の計画には私たちは完全に嫌気がさし、背を向けてしまいます。そのとき私たちは神の御子ご自身に期待を向けるようになります。そして神の御子は、人間にはできないことが、神には可能であり、神は行われるのだという無限の確信を与えてくださいます。

ですから、読者の方々にはよく考えてもらいたいのです。未熟な人間的努力で完全にめちゃくちゃになった世界のただ中にあっても、私たちは今、主を信じる子どもとして、心の平和と恐れからの自由をもちうるのだという事実を考えて欲しいのです。

世の中は恐れであふれています。アメリカ大陸を旅して周ると、私が接するほとんどすべての人は多かれ少なかれ恐れで駆り立てられているのがわかります。特別客車、バス、ホテルのロビー、食堂車、理髪店―実際、およそ人と接するところはどこでも―この恐れといういやな感覚があたり全体に充満しているのです。人々は明日何が起こるかを心配しています。もしヨブが現代の新聞のコラムニストであれば、今日の記事を締めくくるにあたって、ヨブの名がつけられた旧約聖書の書の第十二章を閉じるときにヨブが用いた言葉ほど、適切な描写はないでしょう。第十二章の最後の二節にはこのように書かれています。

「この国の民のかしらたちの悟りを取り除き、
彼らを道のない荒地にさまよわせる。
彼らは光のない所、やみに手さぐりする。
神は彼らを酔いどれのように、よろけさせる。」

本当に私たちが今日住んでいる世界は貧弱で、盲目で、よろめき、恐れでがんじがらめになった世界です。主イエス・キリストが、御自身の力をもって私たちの理解を超える勇気と平安を与えてくださるということを知らない人々にとってはなおさらそうです。

しかしこの恐れというひどい騒ぎは、悲劇的なことに、たくさんのクリスチャンを飲み込んでしまい、彼らもまた明日何が起こるかを恐れているのです。これこそが私が今述べていることです。
黙示録一章一七、一八節で、復活の救い主がこのように言われるのを聞きます。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。」

ヨハネ六章二〇節では、救い主がガリラヤ湖で嵐にもまれた弟子たちを元気づける言葉をかけられたのを聞きます。「わたしだ。恐れることはない。」

私たちがクリスチャンであるなら、私たちはキリストに属しているだけではなく、聖書によれば、実際にキリストの内にある者として神は私たちをご覧になっています。キリストが死なれたとき、私たちも死にました。キリストが復活されたとき、私たちも復活しました。キリストが昇天されたとき、私たちも昇天しました。キリストが行かれるところに私たちも行きます。もしこれが本当ではないなら、聖書がローマ人への手紙六章で、私たちはキリストとともに十字架につけられたと宣言するとき、聖書の言葉に何の意味があるでしょうか。そしてエペソ二章六節で、私たちをキリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせたと宣言し、コロサイ三章四節で、キリストが現われると、そのとき私たちも、キリストとともに、現われると宣言するとき、何の意味があるでしょうか。

なぜ私たちの心は恐れでいっぱいになる必要があるのでしょうか。キリストが最初であり、最後なのです。キリストは「すべてのものより前」にいらっしゃっただけではなく、私たちが今知っているすべてのものが過ぎ去るときにも、ここにいらっしゃるのです。そして私たちがキリストの内にあるなら、私たちもまたきびしい試練の生活を乗り切ることができます。

バンス・ハヴナーは言いました。「神は恐れが存在するより前にここにおられた。そしてすべての恐れが過ぎ去るとき、ここにおられる。神はすべてのものが存在する前にすべてをご覧になったことを思い出そう。もし今日、神の側に立つことができ、神が見るものを見ることができるなら、私たちの恐れがいかに根拠のないものであり、私たちの涙がいかに理由のないものであることがわかることだろう! しかし私たちは神が見るようには見ることができないし、神が見るものを見ることができない。私たちが将来を見る目は、確実性という意味では、私たちの目に見えるものを超えることはできない。私たちは混乱し、ごちゃ混ぜになった現在という時間を生きるである。」

私たちは、美しい多彩な色模様で織り込まれた、人生のつづれ織りを見ているのです。そしてそこには特別に深紅色で織られた場所があります。それは私たちがひどく苦しんだ場所なのです。私たちは手を伸ばし、美しい織物からその深紅の汚点を切り取り、そして言うのです。「これが人生。これが困難。これが残酷。これが不公平」と。でも待ってください、皆さん、その深紅の切れ端をもとのつづれ織りにもどして、離れたところに立って、その周りにある金、紫、青と関連づけて眺めてみてください。そうすれば人生のその深紅の箇所は、美しい模様を完成させるために必要であったことがわかるでしょう。それがなければ、全体の模様はひどく退屈なものであったにちがいありません。人生の本の中から緋色の文字で書かれた、ひどくつらかった一頁だけを切り離して、「これが人生だ」ということが私たちにはあまりにも多いのです。いいえ、皆さん、その頁を本に戻して、本全体を読んでください。赤ん坊の頃から始まって、子ども時代、青年時代、成人時代、そして年老いた日没の時代まで。そうすればもしそのような頁がなかったら、その本は実に退屈であったにちがいないことがわかるでしょう。私たちの問題は、織物の模様の中に既に織り込まれた青や金があることを忘れ、あるいは本には既に書かれた喜びの頁があることを忘れてしまうことです。そして将来何が起こるかがわからないため、すさまじい現実だけを見てひどく恐れてしまうのです。でも、思い出してください、愛する皆さん。あなたは人生をいっぺんに、最後まで見ることのできる方の中にいるのであり、その方はあなたの方を見て、「恐れることはありません」とささやいておられるのです。

神がご覧になることを私たちが見ることができ、私たちが目的地に、神とともに、神にあって到着するのを私たち自身が見ることができたなら、私たちの恐れは和らぐことでしょう。いいえ、私たちは神がご覧になることを見ることができません。しかし私たちができることを教えましょう。私たちは主が言われることを聞くことができるのです。主は全能の目をもって、将来私たちの人生に入り込む悲劇と苦しみを一つ一つ予見しながらも、主は同じ全能の目をもって私たちが安全に永遠の世界にたどり着くのもご覧になるのです。ですから、私たちが見ることができないとしても、私たちは主を信頼できないことがありましょうか。もしなんらかの方法で、あなたがある目的地に安全に怪我なく到着しようとしていることが完全に確信できるなら、途上のちょっとした問題で恐れを抱くことがあっても、そのような確信と保証があれば、恐れが和らぐのではないでしょうか。そうです、恐れを抱いている皆さん、始めから終わりまでをご覧になるだけでなく、行程を前もって計画し、舵をとる方が、今日も耳元でささやいておられるのです。「私は最初であり、最後です。死んだが、今生きています。私は道を知っており、その道の終わりを知っており、今日、あなたに『恐れることはない』と言います。」

恐れを抱く罪人に、主は言われます。「恐れることはありません。私が救い主です。」道を見失うことを恐れる者には、主は言われます。「恐れることはありません。私が道です。」死を恐れる者には、主は言われます。「恐れることはありません。私はよみがえりであり、命です。」地獄を恐れる者には、主は言われます。「恐れることはありません。私はハデスの鍵を持っています。」あなたの人生の中に訪れるために今日も待っておられ、こう言われるのは、この救い主なのです。「平和があなたにあるように、私の平和をあなたに残します。私は最初であり、最後です。恐れることはありません。」

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本Webページは『私は乏しいことがありません』(R.T.ケッチャム著、青木武司監訳、アクラとプリスキラ舎発行)の第七章より抜粋したものです。本Webページの著作権はアクラとプリスキラ舎に属します。このページを個人の利用目的でプリンタに印刷してもかまいませんが、本ページの内容の一部または全部を無断で配布、転載することはできません。
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