『驚くばかりの愛』(Love So Amazing)

ヨハネの福音書3章16節講解

『驚くばかりの愛』

Love So Amazing

ロバート・T・ケッチャム博士(1889-1978)

訳:伊豆洋一 監修:青木武司

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは、御子を信じるものが、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネ三章一六節

ヨハネ三章一六節は、恐らくもっとも親しまれた聖句であり、聖書の中で誰もが知っている聖句でもあります。しかし、実際はほとんど理解されていない聖句でもあると思います。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは、御子を信じるものが、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

この聖句の奥には、神様の驚くべき、限りない愛が、少なくとも七つの啓示として示されています。私たちは、その事を見過ごしにしてきているか、少なくとも今まで十分に考えていませんでした。

ヨハネ三章一六節は、あまりにもよく知られている聖句なので、私たちはその内容を見過ごしにしてしまうのです。それは、詩篇二三篇の第一節のようです。簡単に暗記できてしまいますから、説教者がどこかを暗唱するように促す時に備えて、自分のポケットの中にいつも準備しているのです。あなたは、立ち上がって、暗唱します。「神は、実に、そのひとり子を、お与えに、なったほどに、世を愛された。それは、御子を、信じるものが、ひとりとして、滅びることなく、永遠の、いのちを、持つためである。」おしまい。あなたは、一つの聖句を暗唱しました。但し、暗唱をしたに過ぎないともいえます。

「ある事柄に親しんでくると、その事柄を軽蔑し始める。」と言った人がいます。ある雰囲気のなかで、ある事柄と共に生活していると、その魅力も嫌悪感もなくしてしまい、その事があたりまえのことになってしまいます。

それと同じことが、この聖句にもいえます。この比類なき、驚くべき御言葉の宝の奥に隠れているものを見ようとする時に、御霊が私たちを助けてくださいますように。

一 行動に表れる神の愛

まず初めに、この聖句が明らかにしていることは、神様の愛は、行動に表れるということです。「神は、、、お与えになったほどに、、、愛された。」とあります。

愛であれば、それがどんな愛でも、遅かれ早かれ必ず行いに表れます。真の愛であれば、愛がその主張しているものであるならば、自ずから表れてくるものです。愛とは、ただ心で思い描いたり、思い巡らしたりするだけでは、決して満足できません。遅かれ早かれ、あなたの愛するその相手に、自分の愛を知らせることになります。

自分の愛する人のところにやって来た若い男性は、何週間もその部屋の反対側にすわって、親指を回す動作を続け、目の置きどころなく、ただ一人言のように、「自分は彼女を愛している。ああ、何という愛だろうか。」と言って、10時頃になると、帽子を手に取って家に帰るでしょうか。そして、また次の週に戻ってきては同じことを繰り返すでしょうか。決してそんなことはありません。遅かれ早かれ、その男性は行動に出るはずです。

彼が行動に出ると、それは前代未聞の滑稽な行動かもしれません。近所の人は笑うかもしれませんし、彼のガールフレンドさえ笑うかもしれません。しかし、彼は真剣そのものです。愛が行動に出てくると、だれもその結果は予測できません。但し、その愛が本物であれば、必ず何かが起るはずです。

私にもそのような経験がたくさんありました。それを見て、ある時父は、私の神経を逆なでするかのように、「小犬の恋」だといいました。私は頭に来ましたが、それでも父が言ったことはまんざらうそでもありません。

15歳か、それより少し上だったでしょうか。私は、思いを寄せている女性に、自分の気持ちを告白する時期ではないかと思いました。私は、始めてお金を稼ぐようになってその仕事に行く途中でした。私の恋愛の思いは、(少なくとも、その時にはそう思っていたのですが)いつかは実るだろうと思っていました。そこで、私はそのために備えて少しお金をためていました。

さて、私は思いきりました。行動に移したのです。ハハハ。聞いたらすぐに忘れて欲しいのですが。私はバレンタインのプレゼントを用意しました。信じられないかもしれませんが、そのために一六ドルも払いました。ああ、あなたにも一目お見せしたかった。アイオワ州でよく言う「並はずれたもの」です。それは、高さ二フィートもあるもので、三脚にのっていました。長さは少なくとも一八インチで、それが入っていた箱は八インチの深さがありました。しっかりとした、本物のセルロイドでできていました。それが幾巻きもあって、ミシン目が入っており、フィリグラン細工が施してありぼかしがはいっていました。そして一六ドルもしたのです。

そして、その小さなセルロイドが飛び出ているちょうど真ん中に、そう、その真ん中には現物の後ろ側に通じるすき間があり、その小さなフレームの後ろ側には大きな赤いハートがあり、その真ん中を矢が射抜いていました。

一六ドルです。私の思いは彼女に通じたでしょうか。恐らく通じたと思います。しかし、ともかく遅かれ早かれ、愛は必ず行動に出ます。そうなった時には、その気持ちがわかってもらえるかもしれませんし、あなた以外には誰にも理解できないものかもしれません。しかし、それでも愛であることに変りはありません。

それと同じことが神様の心のうちについても言えるのです。「神は、、ほどに愛された。」神様はアダムとエバを愛されました。そして、何世紀にもわたって旧約聖書を表わして下さる中で、そのご愛をますます明らかにされました。愛して、愛して、愛し続けられました。神様はご自身の愛を民に伝えるために預言者を送られました。四○○○年にわたって、天から人々を見下ろして、「私は人々を何と愛していることでろうか。これ程までに愛している。」とおっしゃいました。そして、ある日神の愛は行動にでました。愛は、その対象に愛されていることを伝えずにはおられません。

今朝、わたしが皆さんにお伝えしようとしていることが、ヨハネの福音書一一章と一二章に美しく描かれています。

ラザロは病気になりました。きっと医者が来て、治療をしたことでしょう。それでも、ラザロは仕事に戻ることはできませんでした。病気は長引いて数週間から、数ヵ月にわたってきました。そして、悪くなるばかりです。姉妹のマリヤとマルタは、主を呼んできてもらおうと人を遣わしましたが、主は来られませんでした。

ある日、ラザロは最後の一息を引き取り、死者に着せる衣に包まれて、墓に埋葬されました。マリヤとマルタは、こじんまりとした自宅に戻ってきました。そして、四日後に主イエス・キリストは来られました。主は、姉妹たちを墓に連れていき、墓石は取りのけられました。ラザロはよみがえり元気になりました。

さて、一二章では、その数週間後のことです。イエス様を囲んでベタニヤの家で夕食会が開かれました。ここに記されている記録は興味深いものです。ラザロは、そこで横たわって食卓についていました。マルタは台所で食事の準備をし、マリヤはすわってその食事会の様子をじっと見守っていました。

想像力を働かせてその様子を再現して見ましょう。マリヤは食事会の催されている部屋で、食卓についている客を見まわしながら、ラザロの所で視線が止まります。彼女はあの恐ろしいほど心配な日々を思い出します。死が近づいてきた日を。彼女はラザロの埋葬の時を追体験します。マリヤとマルタは、ベタニヤの小さな自宅に戻ってきて、光が消え、冷え切ってしまったのを思い出します。すべては冷たく暗くなってしまい、その家は不安に満ちていました。長い4日間の間、マリヤとその姉は、自分たちの悲しい出来事を思い巡らし、考えていました。

そこに、イエス様は来られて、ラザロは回復されました。ここで、彼は今食卓について、まるで刈り取りをする手のように、力強く、たくましい手のように食事をしています。ラザロは、いわばマリヤの祝福そのものです。

さて、彼女は視線をラザロから、食卓の向こうのイエス様にしっかりと注いでいるのが私には見えます。彼女の思いは、「祝福」から「祝福を与えて下さるお方」に移っていきます。彼女は、すべてを変えて下さったのはイエス様であること、ベタニヤの小さな家に暖かみ、光、そして希望を回復して下さったのはイエス様であること、すべてをなされたのはイエス様であることを覚え、愛が彼女の魂を満たして来ます。偉大で押し寄せるほどの愛の波が彼女を捕え、感情のあふれるほどの高まりへと押し出します。そして、彼女がイエス様のことを考えると、静かにつぶやくのが私にも聞こえます。「ああ、私は主のことをお慕い申し上げます。」と。

そして、愛はクライマックスを迎えます。愛は行動に出なくてはなりません。一瞬のためらいもなく、自分が何をしているのかを考える間もなく、自分のもてる最も高価なものーナルドの香油がいっぱいに入った、大切で高価な小さな石膏のつぼーを手に取り、救い主の下へと持って来ました。自分の手でそのつぼをこわし、御足にぬったのです。愛が行動に出ました。

ここで、少し時間を取って次のことを考えていただきたいのです。マリヤが主に対する愛情によって行動に出たとき、彼女は冷めてもなく、冷え切ってもなく、計算もしていませんでした。自分の行っていることを一瞬たりとも考えてはいませんでした。愛は不注意なほどすべてを捨てさったのです。彼女は自分がどれほど愛しているかをイエス様に知っていただきたかったのです。ベタニヤの小さな家庭が何年もかかってためてきたものをすべて捧げることは、彼女にとって全く問題ではありませんでした。

ああ、あなたも私もマリヤのようでしょうか。よく聞いていただきたいのです。あなたがイエス・キリストのために何かをする度に、腰を下ろし、それを実行するためにどれほどの犠牲が伴うのかを計算するとしたら、イエス・キリストのために何かの犠牲を払う度に、頭の中の帳面に次のように書き付けているとしたらー私はイエス・キリストのためにそれをし、これこれのお金がかかった。また、私は別の牧師職につくために、あるいは主のために何かをするのに五○○ドルの犠牲をはらったーそして、年末になって自分の捧げるべき十分の一献金を五○セントか七五セント余計に捧げたからといって、献金箱から七五セントをとってポケットにいれたとしたら、あなたはまるで雇い人に対するように、全能の神様に対して記帳しているのです。もし、それがあなたの持っている愛であるとしたら、もしそれがあなたの犠牲的な奉仕であるとしたら、あなたはもう一度あふれるほどの愛に浸される必要があります。それは愛ではありません。それは、ただの冷たい取り引きです。愛は、それに伴う犠牲を計算しません。

海外宣教に行っていた宣教師が、身体にがたがきてしまい、ほとんど将来に希望がなく、用なしとして棚上げにされたとしたらーどこに行ってもこれ以上何の役にもたたないのですーその宣教師は立ち上がることもしないでこう言うでしょうか。「イエス・キリストに仕えるために、これ程の犠牲を伴ったのです。」と。いいえ、彼はそれが崇高で聖なる特権であると私たちに語ってくれるでしょう。
マリヤもそうでした。彼女は救い主の足元でそのつぼをこわしました。その記述によると、その香りは彼らが座していた部屋いっぱいを満たしたとあります。

愛する皆さん、私は神様もきっとそうだったと思うのです。神様の愛の力強いクライマックスを迎え、愛は行動となって現われるべき時になって、神様は天で辺りを見回してこうはおっしゃらなかったでしょう。「さて、私は何を犠牲にしても大丈夫だろうか。大天使のガブリエルを送っても大丈夫かな。ミカエルはどうだろうか。セラフィムを遣わすことができるだろうか。」と。

一瞬の戸惑いもなく、神様は御手を伸ばし、御自身の御子という神であられる貴重な香油を手に取り、罪のない人のかたちである石膏のつぼに入れて、街の門の傍に堅くたっている丘に送り出されました。それが木でできた十字架にしっかりと置かれると、神様は天から御手を伸ばし、それを砕くほど強く打ち、それは壊れて粉々に砕かれました。

罪のない人のかたちという壊れた石膏のつぼから、御子の神性という救いをもたらす香油が流れ出て、その香りは、私たちが今朝座して、主を礼拝しているこの教会を満たしているのです。

神様は、与えられるほどに愛してくださいました。神様の愛は、行動となって現われるのです。

二 選ばれるのに比類なし

次に、神様の愛はその対象を選ばれるにあたり、他に比類ないものです。神様は世を愛され、神様は全世界を愛されました。天使でも、太陽でも、月でも、星でもありません。御自分の創造の美しい御業でもなく、流れる小川でもなく、静かに水音をたてている湖でもありません。雪をかぶった頂でもなく、一面に花で覆われた平原でもありません。神様は世を愛されたのです。この世を愛されたという神様の愛は驚くべきで、まさに驚嘆に値するものです。それは、神様がこの世について語っておられることを見ると、それがどれほど驚嘆すべきことかということがよくわかります。

神様に愛されているこの世について、神様ご自身がどんな事をおっしゃっているかをお知りになりたければ、イザヤ書を見てください。そこには、アダムの子孫の誇る巨大な像を神様がどのようにご覧になっているかが記されています。

「あなたがたは、なおもどこをうたれようというのか。反逆に反逆を重ねて、頭は残すところなく病にかかり、心臓もすっかり弱り果てている。足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と、打ち傷と、打たれた生傷。絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。」イザヤ書1章5、6節

これこそ世について神様が語られたことです。力強い巨人のように立っているアダムの子孫である年を経た人間は、頭が残すところなく病にかかっているとあります。

頭脳が病にかかっていて、たとえ全能の神様で天地の創造主であるお方であってもなし得ないことがあると考えてしまうのです。大学教授が、合理的、且つ無理からぬ自然な理解に基づいて、科学的に理解し、細かく分類し、類別することができないものは、受け入れることができません。

頭脳が病にかかっていて、超自然的なことを否定し、すべてを自然という低いレベルに収めてしまいます。

そのような知的な病は、イエス・キリストの神性を否定してしまいます。

その上で、イエス・キリストの処女降誕をも否定し、堕落したユダヤ人の若い女性と不道徳の大工の間に生まれた私生児という判をキリストに押して、後々まで語り継がせてしまいます。

それに、キリストの流された血に救いの力が備わっていることを否定します。

墓から主の身体がよみがえられたことも否定します。

知的な病は聖書の霊感と権威も否定します。

神の一位格としての聖霊を否定します。

悪魔の実体も否定します。

現実としての天国と地獄も切り捨ててしまいます。

頭脳が病におかされているゆえに、キリストを含めて私たちすべてを、おたまじゃくしやアメーバに落してめてしまい、まるで進化の過程を登り詰めて、何千年も先でもしかしたら神々になるとでもいわんばかりです。

頭脳が病におかされていると、そんなものなのです。

その心はすっかり弱り果てて、身体全体からまさに罪の腐敗を垂れ流していると神様がおっしゃったのも不思議ではありません。「打たれた生傷、、、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。」

この全世界、この偉大なアダムの子孫は、頭脳が病におかされ、心はすっかり弱り果てて、身体はその一つ一つの汗腺と組織から、罪のひどい汚染と腐敗を文字通りしたたり落しているのです。そこに私たちはたっています。

私たちは腐敗と悪臭と汚れに満たされ、聖い神様の目の前にたっています。そして、ヨハネ三章一六節が他に類を見ないことは、神様が愛されたのはまさに上に描いたこの世であると神の御言葉が語っていることです。

三 その犠牲は高価である

第三番目に、神様の愛は高価な犠牲を払われたということです。「神は、実に、その一人子をお与えになっほどに、世を愛された。」のです。

皆さん、今朝、イエス・キリストの犠牲がどれ程高価で、多大なものであったかをはかってみようと思われますか。どんな測り竿を持って来られるでしょうか。どんな秤やものさしをもってキリストの傍にたち、救い主である主の支払われた無限に高価な犠牲を測るつもりでしょうか。どこにいって、どんな測り竿をもってきて、ヨハネ三章一六節にあるこのような愛の水源に差し入れ、引き抜いては、「これこれの量でした。」といえるでしょうか。

これ程までに偉大で高価な神様の愛という御性質を万が一にも測ることができるとすれば、それは、主の苦しみという視点から見るしかないと思います。ゲッセマネの庭に一緒に行ってみましょう。そこには、オリーブの木の下で、白い衣に包まれた人、祈りの中でそのお方の両手は御父に向けられ、空の方を向いている青白い御顔は、やさしく揺れるオリーブの木の葉の間を漏れてくる月明りに照らされています。近づいて行くと、この方は魂の苦しみの内にあるのがわかります。

その聖なる地にもっと近づいてみると、白い御手が真紅に染まり、白い御顔が赤い斑点で覆われ、この方の白い衣がさわる皮膚の部分は大きな赤いしみがにじんでいます。実は、体じゅうの一つ一つの汗腺から大きな血のしたたりが出ていることを発見するのです。

苦しみ。その全ての苦悶。その全ての恐怖。その深さ。この方の聖い魂の内に押し寄せているのは、すぐ後に来るカルバリにおける罪の支払いである死の意識です。

園から移動する主を一緒に来て見てください。裏切りの者のキス、そして、ピラトの官邸へ。キリストにある神様の愛の贈り物がどれほど尊いのかを測ろうとするなら、ピラトの官邸における主をご覧になってください。

つくりものの冠を「偽物の」王様にかぶせるのは、活かしたアイデアだと思った人がいました。そこで、長くてとげのたった東洋に生育するいばらのリースを手に入れて、イエス様の眉に押し付けました。太くて長いとげが眉につき刺さるか、こめかみのあたりの青白い肌にのっかっているのが見えます。そして、ある人がやって来てイエス様の髭をつかみ、その根から引き抜くのが見えます。

すると横暴なローマ兵がやって来て、その拳をしっかりと握り、拳闘家のごとく狂暴にその輝く御顔に振り下ろし、あざをつくり、骨を折り、皮膚を傷だらけにして、もはや人の顔とは言えないものになってしまうまで殴り続けます。

それから裏側に鞭がおいてある柱に足を運びます。鋭い一振りが肉を引き裂き、ほとばしる鮮血が覆うこともなく骨が露出するのを目のあたりにします。その後、主はもう一度官邸に戻ってきます。そこに誰かが近づいて、ふざけて目隠しをし、葦を手に持って頭をたたいては、あざけって言います。「は。は。ユダヤ人の王様、万歳。おまえを打ったのが誰かを当てて見よ。」と。

救い主が静かに、口も開かず、だまって立ち上がると、唾を口にいっぱい含んでいる小さくて臆病な人影が歩みよって、その輝く御顔に吹きかけます。ご自分が創られた一人の人間の苦みでいっぱいの唾が、血まみれになった御顔からしたたり落ちても、主は立ったまま一言も口にしません。

愛する皆さん、私は何とかして主のご愛の犠牲がどれほど高価なものであったのか、その深みにまで掘り下げようとしているのです。

皆さん、カルバリの丘までどうぞ私について来てください。そこでは、釘が主の手と足を砕き、五つの傷跡から真紅の泉が湧き出ます。傷つける者の前に全くの裸の状態で、焼けつく太陽の下で三時間もの間十字架にかけられ、ついにはその太陽でさえ辱めのゆえにまるでその手で顔をかくして、自分を創った創造主の惨い死を見ない様にしています。十字架が打ち込まれた地面は、そのごつごつとした割れ目を粉々に砕き、まるでその悲劇的な出来事に対して抗議をしているかのようです。地球全体が揺れ動き、一瞬、軌道の中心から浮き上がり、はずれてぐらつきます。すると、十字架上で絶望と苦悶のゆえに、「わが神。」というイエス様の叫び声が聞こえます。イエス様は、私とあなたの罪に対する神様の燃える怒りの下に身をおかれます。

どうぞ来てください。今朝、私と一緒に来てください。あなたは、どこで測り竿を見つけることができますか。どのような秤やものさしを底に沈めてこのように高価な愛の深さを測ることができるでしょうか。神様はそれ程までに愛してくださったがゆえに、ご自分の御子をお与えになったのです。

四 門戸の広さ

第四に、この聖句が明らかにしていることは、神様の愛は行動にはっきりと表れ、その選びに比類なく、その犠牲は高価であるだけでなく、それを受けたい人には門戸を広くあけている、ということです。

「神は、実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは、信じる者がひとりとして滅びることなく。」ああ、その言葉があることを神様に感謝します。「誰でも!」なのです。ですから、わたしは今朝ここにいるのであり、あなたも今朝ここにいるのです。「誰でも」です。

ちょっと、あなた。はるかかなたのアフリカのジャングルに住む肌の黒い未開の人を見てください。手と膝で這いつくばって、何マイルもジャングルを通って、何とかその小さな社にたどり着こうとする姿を見てください。その社とは、羽のついた棒が一本たっているだけのようなものです。そこで、その人は自分の神に祈るのです。ああ、かわいそうなアフリカの未開人よ。あなたは失われていますが、もし望むならば、あなたも「誰でも」の一人となれるのです。

そして、あなた。遥か上の方に、そう、一番上に登り詰めているアメリカの大統領よ。大学の総長よ。そして、大富豪、文化人、教育者、教養のたしなみのある人よ。男性も女性も雲にまで登り詰めている人よ。あなたももし望むならば、「誰でも」の一人となれるのです。そして、その両者の中間にいる人々も。

五 享受する人は限定されている

次に覚えておいていただきたいことは、この聖句に語られている愛を受ける人は限られているということです。

イエス様が死なれたからといって、全ての人が天国にいくというわけではありません。確かに、招待される人は多いのです。「誰でも」とあるとおりです。しかし、その愛を受けることができるのは、「信じる人」だけなのです。信じる人というのが条件で、教会の会員になるのでなければ、招きのときに前に出てきて、バプテスマ漕や洗礼盤でバプテスマを受ける事でもありません。また、堅信礼を受けることでもなければ、良い行いをすることでもありません。信じるものが受け入れられます。それが、御言葉です。主よ感謝します。正しい行いは必要ありません。「行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」とある通りです。

しかし、私たちが見てきたこの素晴しい愛ーーまさに神の愛であり、驚くべき愛ーーは、その全てを頂くか、何も頂けないかのどちらかです。
あなたのしがみついている神話、儀式、あれやこれやと救いの祭壇を雑然とふさいでしまうもの全てから離れてください。そういったものをすべて拭き取り、掃き清めてください。カルバリの祭壇を、いと高き天から地獄の門にまで届く愛、ただ一つの条件を満たす者、すなわち信じる者を一人残らず救う愛だけで飾ってください。

六 その働きにおいて比類なし

次に、この聖句で明らかにされている神様の愛は、その働きにおいて他に比類の
ないものです。「信じる者は一人として滅びることなく。」とあります。「滅びる」という言葉は、私の興味をそそります。皆さんはこの言葉についてよく考えたことがあるでしょうか。滅びる。それは、たった2つの音節からなる言葉ですが(注:英語ではper-ish)、柔らかく発音することはできない言葉です。この言葉を、柔らかく包むことはできません。これをやさしくささやくことさえできません。その言葉には、柔らかい音節はないのです。

滅びる、滅びる、滅びる。この言葉を口から発する度に、その残酷さを感じざるを得ません。あなたに不快感を与えます。この「滅びる」という言葉は。

滅びる、滅びる、滅びる。あなたを傷つけ、引き裂き、この言葉が通り過ぎると、あなたを血だらけにしていきます。

滅びる、滅びる、滅びる、滅びる、滅びる。この言葉は、まるで地獄の苦しみの総体がつまっているかのような響きを持っています。望みもなく永遠に続く心の痛みの全て、永遠に滅びに定められた人々の叫びと、決して朝の来ない永遠の夜の絶望で満ちているかのようです。

その二音節の短い言葉ー滅びる、滅びる、滅びる―の中に、人類の歪んで、ねじれて、壊された望みが全てつまっているかのようです。それは、悲痛の灰を全てかき集めて、絶望の心痛とまぜあわせて来たかのような響きがします。

人間の知性が、思いつく限りの苦しみと苦悩、喪失、失望と悲しみを集めて、この二音節の短い言葉に注ぎ込みました。その中には、永遠に閉じ込められた人々の叫び声が、地獄の通路からその壁のあちこちに反響して聞こえて来ます。滅びる。滅び。破滅。それは、まさにあなたを引き裂き、引きちぎり、引っ掻き、砕きます。

しかし、神様の愛する御子の愛に基づく御働きが、この御言葉の中にひときわ際立っているのがわかります。神様の御子がカルバリの十字架で「滅びる」という言葉を片付けるとき、それはあなたの足元に砕かれ、実体のない無力なものとして横たわります。

その恐ろしい十字架の上で、あまりにも驚くべき神様の愛は、「滅びる」という言葉に手を伸ばし、それを掴んで、御自身の高貴な唇にもって来られ、最後の一滴に至るまでその言葉の苦きかすを、御身体、魂、そして霊に注ぎ込み、全ての人の身代わりに死を味わわれました。

「滅びる」というその恐ろしい言葉をイエス様はカルバリの上で働く愛の内に捉えられました。その全ての苦しみ、拷問、灰、苦悶、心痛、破滅、永遠の刑罰ーこのように地獄をさす言葉はすべてその「滅びる」という言葉に注ぎ込まれ、イエス・キリストはその日、御自身の唇にもっていかれました。そして御身体、魂、そして霊のうちにある全ての組織を焼尽くし、傷つけ、破りました。今や、その言葉は、たとえあなたの内にあったとしても、今朝、力なく、砕かれ、実体のない無力なものとして横たわります。「信じるものはだれでも一人として滅びることなく(必要がなく)」とある通りです。

七 その恩恵の永遠性

最後に申し上げたいことは、神様の愛の恩恵は永遠である、つまり、永遠の命だということです。いつまでも続くのはただ一つです。そのために、どれほど神様をほめたたえればよいでしょうか。全てのものが移り変わり、耐えず動いているこの世の中で、いつまでも続くものがあることに神様に感謝します。それは、神様の命であり、今朝、私もこの身体の中に持っています。永遠の命。神様の愛は永遠で、決して絶えるものではありません。愛するみなさん、神様の愛は決してあなたを見捨てません。永遠なのです。

あなたが人生の日の差す小道を歩いているとき、あなたのかわいい奥さんが健康で、子どもたちはすくすくと育ってたくましくなっています。給料をたくさん頂いて銀行口座にある貯金は増え続けてきています。そのように、全てはうまくいって人生はバラ色であるとき、神様の愛はあなたの手をとり、日の差す小道を導いてくださり、以上の祝福を聖別してくださり、限りなく貴重なものにしてくださいます。それは、たとえ神の愛を抜きにして太陽がどれほど素晴しいものとなったとしても、それには比べ物にならないほどです。

しかし、愛するみなさん。上の状況とは異なった場合もあることを覚えて欲しいのです。あなたのかわいらしい奥さんが病気になり、入院し、そのまま葬儀場へ連れていかれ、帰らぬ人となった時、そしてあなたは寒くて空っぽの家に戻ってきて、まだ幼い子どもたちの動揺した顔を覗き込み、暗闇と寒さのなかで、「ああ神様、助けてください。」と、あなたが祈るとき、神様の愛はあなたととも歩いて下さるのです。私もそんな経験しました。

一九二○年の短い一○箇月間は、今でも忘れられません。その一○箇月の間に死の一撃が五回も私の愛する人々を取り去ったのです。その中には、義理の父、私の父、妻も含まれています。私は昼間は自分の書斎に、夜は自分の寝室に閉じこもり、私を取り巻く冷たい暗闇のなかで手探りをし、ロイスとペギーの顔を見ると、私は言いました。「ああ、神様、私は、どうすれば、、、。」

私は様々な事を考えました。私には見えず、理解できないことがたくさんありました。しかし、その冷たく暗い数週間の間に、決して損にはならないことが一つだけありました。それは、永遠に続く、決して絶えることのない神様の愛の暖かさです。それは、私を暖かく抱き込み、神様の御もと近くにまで連れていって下さり、私の耳もとで神様がこう囁いて下さるのを聞いたのです。「愛は決して絶えることがありません。」と。

私は今朝、あなたにお願いしたいのです。この驚くべき、神様の愛に背を向けるような事はしないでください。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じるものが、ひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためである。」

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