創世記 48:8-11 イスラエルはヨセフの子らに気づいて言った。「これはだれか。」ヨセフは父に答えた。「神がここで私に授けてくださった子どもです。」すると父は、「彼らを私のところに連れて来なさい。私は彼らを祝福しよう。」と言った。イスラエルの目は老齢のためにかすんでいて、見ることができなかった。それでヨセフが彼らを父のところに近寄らせると、父は彼らに口づけし、彼らを抱いた。イスラエルはヨセフに言った。「私はあなたの顔が見られようとは思わなかったのに、今こうして、神はあなたの子どもをも私に見させてくださった。」
長子の権利を受け継いだヨセフの子らがヤコブから受ける祝福は、目に見えない霊的祝福です。
父ヤコブの肉の目は老齢のためにかすんでいて、ヨセフの子らを肉眼では見ることができませんでしたが、ヤコブの霊の目は衰えておらず、彼らが受けるであろう霊的祝福を見ることができました。
創世記 48:21,22 イスラエルはヨセフに言った。「私は今、死のうとしている。しかし、神はあなたがたとともにおられ、あなたがたをあなたがたの先祖の地に返してくださる。私は、あなたの兄弟よりも、むしろあなたに、私が剣と弓とをもってエモリ人の手から取ったあのシェケムを与えよう。」
「私が剣と弓とをもってエモリ人の手から取った」は完了形で書かれていますが、神の前には過去も未来もありません。このとき、シェケムの地はエモリ人に奪われていました。ヘブル語の完了形は、まだ起こっていない神のわざに対しても使われます。
ヤコブは、エモリ人の手からシェケムを奪い返すことを確信して、ヨセフにあのシェケムを与えると言ったのかもしれません。シェケムは、のちに(何千年も経ってから)イエスがサマリヤの女に永遠のいのちの水を飲ませることになる「ヤコブの井戸」がある場所です。ヤコブは、まだこの目では見ていないが、イエス・キリストが将来与えてくださる霊的祝福を霊の目で見たのだと思います。
1コリント 2:9 まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」